『Shower booth』
気が、緩んでいたのだろうか。それとも、この空間に慣れてしまった、からだろうか。
ほんの少しばかり眠りにつき、意識的な視線に促されたように、ふと目が覚めた。
隣にいたはずの気配は、僅かな温もりだけをそこに残し、消えていた。
気だるさの残る身体を持て余しながら、瞳だけを動かし、何気なく視線の元を探す。
けれど、たどり着いた先にいた彼は、まるで何時間も前からそうしていたように、窓辺に寄り添い夜空を見上げていた。
彼が、見ていた、と思ったのは気のせいだったのだろうか。
差し込む月明かりに陰影が濃さを増して、その肢体の輪郭が鮮明に浮き上がる。
先程まで溶け合うくらいに重なっていた肌は、温度を無くしてしまったかの様に、無機質な色を見せていた。
私が目覚めていることに、気づいているのかいないのか、彼は、ただじっと、そこにいる。
その静かな佇まいを、邪魔することは憚れる気がして、私も身じろぎひとつせず、彼と同じようにただじっと、シーツに包まっていた。
彼以外は、全てが闇の中。そして、その闇に私自身が同化するように。
ほの暗さに目が慣れ、部屋の様々なものが見えるようになっても、私の瞳は、まるで絵画の一部のようなその光景だけを映していた。
「先にシャワー、浴びて来たら?」
もう少しだけこの時間に身を委ねていたい、と望んでいた私にとってその声は、まどろみの中、けたたましく鳴る時計のベルのように、不快なものだった。
聞えないふりをしようかと、一瞬、考えた。
ベルも、止めてしまえば鳴ることはない。私は再び眠りにつける。
けれど彼には、私の瞳が僅かに放つ光が、確実に届いている。
何より、ここは私の部屋じゃない。そして、いつまでも居ていい場所でもない。
目覚めた時が、終わりの時間なのだ。
月明かりを遮るように窓に背を向け、こちらを見ている彼の表情は解らない。
私に、それを読ませないように、しているかのようだ。
返事はせずに身を起こし、ガウン代わりにシーツを巻きつけて、浴室へと向かった。
ひんやりと冷たい床。
そして、すぐには温度の上がらないシャワーから吐き出される液体の冷たさが、
いつも私を、現実へと引き戻す。
この時間が、一番自分を責めたくなる時で、かつ、自分を取り戻す儀式にも似ていた。
この里に来て、何度繰り返したか、もうわからない。
貪るように求めて、熱に浮かされたような、うわごとを上げる。
そうして、彼の身体にしがみついている間は、それでも私は幸せなのだろう。
ひとときの快楽に身を任せ、押し寄せる波にのまれてしまえばよいのだから。
その後に訪れる、岸に打ち上げられたこの身に気づく瞬間が、一番虚しいのだ。
わかっているのに、止められない。
徐々に水温は上がり、蒸気がたちこめる。それに酔った様に、必ず嘔吐感に襲われる。
いつから、こんなに強欲なオンナになったのだろう。
シカマルも欲しい。
でも、彼との関係も断ち切ることができない。
それなら、心と身体を切り離して割り切ってしまえばいいと、開き直る図太さもない。
結局は自己嫌悪に苛まれ、勝手に苦しんでいる私。
シカマルと居ても、ただ幸せだったはずなのに。
満足できないと思ってしまう私に、気づかせた彼を、勝手次第に恨んでしまう。
誰のせいでも、ないはずなのに。
髪を充分に濡らして、備え付けられたシャンプーのボトルに触れる。
彼が普段使っているものに手を伸ばすのは、そこにあるから、だけではない。
忍らしく、ここに置かれているものは全て一切、人工的な香りがしないのだ。
誰の匂いでも、何の匂いでもない、無臭。その安心感がそうさせる。
けれど、彼の香りは何度洗い流しても、身体のそこここに残っているような気がして、
私はいつも執拗に、髪の間へと指を走らせていた。
「ずい分乱暴に、洗うんだね」
はっと、浴室の鏡に目をやる。曇るそこに、ぼんやりと映る人影。
いつの間に侵入してきたのだろう。そう思って、すぐに私は自嘲の笑いをもらした。
彼に対して『いつの間に』なんて愚問だ。忍なのだから、どこでもいつでも気配は殺せる。
今まで、この空間に彼がやってくることがなかったから、私自身の警戒心も薄れていたのだ。
なんとなく、理由もなしに、私の入浴を邪魔しないような気がしていた。
「使うなら、急ぎます」
鏡に向かってそう答えた。そして、再び指を動かそうとした私の腕を、彼は優しく拘束した。
「そうじゃなくて、洗ってあげる」
「自分で、出来ます」
戸惑う私の返事を無視して、彼の指が、頭皮を撫で始めた。
ああ、ダメだ。
きつく瞳を閉じる。
少しでも触れらると、まるで金縛りの術にかかったかのように、動けなくなってしまう私の身体。
何をされているわけじゃない。ただ、彼の指の腹が、髪の間を、規則的に滑るだけなのに。
じわじわと間怠るに、それでも確実に、眠った泉を刺激する。
最も快感に縁のないと思っている髪の先まで、私は彼の所作に溺れているのだろうか。
キュッとシャワーの栓を開く音が、耳に届く。
ゆるく流れ出た温水が、私の髪を伝っていく。
まるで泡ひとつ残さないように、丁寧に髪を梳く、彼の指。
生え際や、耳の後ろにまで滑り、襟足へと、たどり着く。
ゆっくりと、舐めるように。
その度に震える私の肌に、彼はどんな反応を見せているのだろう。
恥ずかしくて、怖くて、鏡に目をやれない。もうずっと閉じたまま。
目を合わせてしまったら、まるで蛇に対峙した小動物のように、私は彼に、呑まれてしまう。
― ―違う。今の私は、呑まれたくなって、しまうから。
再びシャワーの栓は閉じられ、彼が私の髪を後ろへ引き、ひとつに束ねて、水分を絞るように片方の手を滑らせた。
もうすぐ私の分身は、彼の手を離れて戻ってくる。
この空間は、私が、戻るべき姿に還る唯一の場所だったのに、どうして侵入してきたのだろう。
このまま、この状態で、現実の私に戻れとでも言うのだろうか。
「なぜ? こんなこと」
口にすべきじゃなかったと、気づいた時には手遅れだった。
「帰したく、ないから、でしょ」
まるで他人事のような言葉で、けれども、手にした私の髪とともに、身体も抱き寄せられた。
「ココを出たら、キミはいつも、俺の知らない顔をして出て行くでしょ。だから、邪魔したくなった」
― ―なんで、そんなことを言うの?
終わりの時刻を知らせたのは、貴方の方だったのに。
シャワーを浴びて、出て行く私を知っていて、どうして。
声に出してはならない想いは、すでに温かさを取り戻した彼の肌を伝って、届いてしまったかもしれない。
今、鏡に映る私の顔は、一体どんな表情を見せているのだろう。
彼は、どんな顔で、そんなことを言っている?
「俺にも、よく、わからない」
耳朶を揺らすように彼が囁き、肩を抱いていた両腕が、するりと胸に降りてくる。
彼の指は髪を梳いた時のような丁寧さで、揉みしだき、頂を潰し、唇は、首筋を味わうように、這い回る。
まるで私の思考力を奪うように、痺れるような痣を残しながら。
そして、問うことすら出来ないように、私の口から、確かな言葉を、奪っていく。
「・・・ず・・るい・・・、んん・・・・・んぁ・・・」
「答が出ないのは、キミも一緒なら・・・、今は、続きを、愉しもう」
― ― ここで、抱かれてしまったら、私は何処で、自分を取り戻す?
脳裏に過ぎるその不安も、彼の肌に溶けていった。
『Shower booth2』に続く・・・
2008.2.11
es-pressivo/Riku